セレクト第二弾は、ポストモダンに関する書籍です。《SEASON-ONE》
◇ジャン=フランソワ・リオタール著
『ポスト・モダンの条件-知・社会・言語ゲーム』
(水声社,1986年)
本書は、本来建築の分野から生まれた「ポスト・モダン(後-近/現代)」という言葉が、思想の世界に移植され、かつ定着・伝播していくために最大の貢献をした。
著者によれば、「モダン(近/現代)」に信じられてきた「真理」や「自由」といった《大きな物語》が解体しつくした1980年代以降の状況が、ポスト・モダン的状況だという(ここで一言解説を加えておくと、「ポスト・モダニズム(後-近/現代思想)」とは、「モダニズム(近/現代思想)」を批判的に乗り越えようとする思想を指す)。その歴史的意義から、ポスト・モダンを論じる際、必ずと言っていいほど言及される著書である。では必読書かと言うと、そうでもない。本書の筆致は散漫で、とても名著とは呼べない。読後感も釈然としない。
あとがきの訳者による以下の言葉は、著者自身の文章よりも遥かに明快。「(ポスト・モダン的状況においては)、限りない多様化、差異そして異質性が受け入れられなければならず、《未知なるもの》への感受性あるいはそれへの問いが確保されなければならない。」(227頁「あとがき」)
果たしてキリスト教にとって、ポスト・モダンは吉と出るか、凶と出るか。
◇アラン・ソーカル&ジャン・ブリクモン著
『知の欺瞞:ポストモダン思想における科学の濫用』
(岩波書店,2000年)
物理学、数学の専門家であり、かつ反ポスト・モダンの急先鋒である著者たちが、ポストモダニスト(ポストモダン思想家)が使う、科学/数学の専門用語・概念の誤りを告発。個人的に、非常に衝撃を受けた。
本書の著者の一人ソーカルは、ポストモダニストは理解不能な概念、用語を振りかざす「裸の王様」ではないか、と仮定。3カ月ほどポストモダンを研究し、パロディー論文を作成、ポスト・モダニズムの雑誌に投稿した。果たして雑誌は論文を掲載してしまう。後にソーカルは論文がデタラメであることを公表。「ソーカル事件」と呼ばれるこの事件は、ポストモダニストたちは、実は自分の言っていることも、お互いの言っていることもわかっていないのではないか、という疑惑を人々の間に巻き起こした。
アマゾンジャパンによれば、多くの読者は本書を読んで後、ポストモダニズムを勉強するのをやめた、という。果たしてポストモダンとは、論じるに値しないナンセンスな事柄を弄ぶにすぎない「知的遊戯」、いや「知的テロ」なのか。本書の投げかけた問いは、鋭く重い。
◇高田明典
『知った気でいるあなたのための ポストモダン再入門』
(夏目書房,2005年)
ポストモダンという、非常~につかみにくい概念を、質を落とすことなく、ポップに分かりやすく解説。ポストモダン関係で最初に読む本としては、断然本書を勧める。本書はほぼ全体が会話体で書かれており、「ぼやき」や「突っ込み」を(自ら)入れつつ、「ポストモダンとは何か」という問いに、まっすぐ分かりやすく答えようとしていて、実に好感がもてる。「ポストモダニズムは、死んだ思想ではありません。21世紀初頭である現在、おそらく『もっとも重要な思想の枠組み』であると思われます。」(「はじめに」)
◇マーク・テイラー著
『さまよう―ポストモダンの非/神学』
(1991年,岩波書店)
本書には聖書、クリスチャンの書籍からの引用がふんだんに盛り込まれている。想定読者は、「キリスト教」「哲学」「ポストモダン」をある程度理解している読者。また「言葉遊び」「しゃれ」などの知的遊戯を楽しめる、という感性も要求されるだろう。
著者は神を、「存在」と「無」の境界に置く。いわば西洋の「存在と無の二元論」を超え出ようとする意欲的な試みではあるが、率直な感想は、聖書の神観とは齟齬があると言わざるを得ない。それでもなお、以下の理由により、思想を好むクリスチャンには本書を勧めたい。
1.その時代を知るために。「この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。」(ルカ16:8) 時代を色濃く反映した本書の精読は、その時代(ポストモダン)を知って、時代に相応しい言葉を語るために有益である。
2.ある主張の何がどう間違っているかを指摘できるようになるために。本書は、聖書やクリスチャンの書籍をふんだんに引用してはいるが、多かれ少なかれ文脈を無視している。それらの引用をつなぎ合わせ、ポストモダニズム的には魅力にあふれた書であるが、本来似ても似つかない思想のごった煮という意味では、鵺のような奇怪な書ともいえる。読書を楽しみつつ、自分も似たような間違いを犯していないかチェックし、またある主張の何がどう間違っているのかを指摘するために、本書は良い訓練となるだろう。
◇エレン・デイヴィス、リチャード・ヘイズ編
『聖書を読む技法:ポストモダンと聖書の復権』
(新教出版社,2007年)
正統的で熱い情熱をもつ神学者たちが真剣にポストモダンと向き合っている稀有な書。著者たちは、モダニストには受け入れられない教父の釈義に大いなる尊敬を払い、積極的に活用している。以下の言葉も、モダニストの神学者から見たら受け入れ難い発言だろう。
・「聖書の解釈はただ単純に正しいか間違っているかというものではない。」(16頁) 。
・「(ユダヤ教徒とキリスト教徒間で)自分たちのどちらが間違っているかをはっきりさせる必要はない」(56頁)。
・「不可知論は宗教にとって当然の条件なのである。」(71頁)。
では、著者たちはポストモダニストなのかというと、そうではない。ポストモダニストの代表であるリオタールは、モダニズムを、「『真理』の全体主義的押しつけ」と見るが、それに対し本書は、リオタールは「『ありもしない仮想敵国』(99頁)を作っている」と一刀両断し、ポストモダニズムの大前提を否定しているからだ。
それでは著者たちのスタンスはどこにあるのか。実は彼らにとっては、モダニズムか、ポストモダニズムかということは、真理の価値基準とならない。「キリスト教の聖書は、哲学的気基礎づけによって擁護されるべき真理主張」ではないからだ(191頁)。モダニズムを擁護し、反ポストモダニズムを掲げるクリスチャンは、「いくら外見をキリスト教的に装っても、それは信仰の強さではなく、活力を失った信仰の結果を表している」(191頁)。(!!)よくぞ言った、という感じだが、全くもってそのとおり。クリスチャンにとって、真理の土台は徹頭徹尾「聖書のみ」である。
それゆえ本書の著者たちは、硬直したモダニストとならす、過激なポストモダニズムに流されることもなく、危なげなく敬虔に「脱構築」の概念を聖書解釈に適用することができるのだ(196頁以下参照)。